なんとなく気分が明るくならないとき『イシュタルの娘』(大和和紀)を読む。
お通さんや信輔さんが書に向き合う姿が好きだ。
私はいま、信尹(信輔)さんが流罪になった年齢とほぼ一緒と思われる。信輔流罪編が心に深く残っている。公家や政治のことで疲弊しつつも必死にもがき、秀吉に恨まれ流罪になったけれど、その流罪先の鹿児島で自分にとって大切なものを見つける。
禅の心とは「思邪無」思いよこしま無し
心に思うことに邪心……雑念が無く自然に己であれ……質素な家に住み畑を耕し
薩摩の家臣たちと親しく交流し
そしてときには書を思うさま……
そして、赦免が叶ったのに、流刑地での畑作が気に入ったのですぐには戻らないという。公卿の暮らしにはない大切なものがここ(流刑地)にはあるのだと。「不自由の中の自由」をもう少し自分の中に貯めておきたいのだと。
まあでも、信輔さんも貴人として、また男性として扱われるので、そうでない人たちとは比べ物にならないくらいの良い待遇と言えるよね、流罪だろうと。なのだけれど、この人はこの人なりに公卿の血筋や家柄にずっと悩んでいる描写が続くので、読みながら同情的にもなった。それはそれでつらかろうと……
そういう同情的な気持ちになるのは、信輔さんに焦点を当てているからなんだよね。そして焦点を当てることができるのは公卿であったり書家として名を残したりしたから記録が残っているわけで……身分も高くなく業績などで名を残すこともない人たちは一人の人間としての記録も残らないし、後世の人たちも(研究者とかでなければ)興味を持つことさえしないのがほとんど……
(補足2024/04/07)